「火車」新潮文庫:宮部みゆき

宮部みゆき初期作品の白眉にして日本ミステリ界に燦然と輝く名作。
何をいまさら、といったところだが、作中の謎を解く鍵となったとある施設は令和2年現在、影も形もなくなり(跡地であるというプレートだけが残っている)、もはや人びとの記憶からどんどん薄れてしまっているような気がしたのだ。
本作によって著者はいきなり松本清張や森村誠一の諸作品に迫る社会派の重厚なミステリを世に送り出したわけだが、「火車」は一つの時代の影を描いたというより、ある制度や状況が招く溝を巧みに突いた物語なのだ。用いられた細かい設定などは、今後ますます注釈を必要とするようになっていくだろう。そういう意味では古典的名作とは呼ばれにくい作品かもしれない。
だがやはり、断固として火車は名作である。この小説の真の目的、真のテーマは、「社会派ミステリ」という言葉が想像させる周辺にはない。ダブルミーニングとなっているタイトルも実に巧みだが、それも一つのお遊びにすぎない。
狙いはずっとシンプルでテクニカルな面に向かっている。それに対して一途にまっすぐ向かっているので本当に気持ちがいいのだ。社会派云々の味付けはあくまでもこの異質で異端な小説を「読ませるものにする」ための方便でしかない。
既読の諸賢には何を言わんとしているのかわかっていただけると思う。もし未読の方はなんとかして事前情報など入れずに楽しんでほしい。名作には名作たる確固たる理由と独自性があるのだ。
高崎立郎(ジュンク堂書店高松店 店長)